世界の中でスタートアップが多い国や地域といえば、米国と中国を挙げる人が多いだろう。この2国を追い上げるのが、シンガポール、インドネシア、ベトナムなどの東南アジア諸国だ。 とくに日常生活に必要な多様な機能を集約したスーパーアプリを手がけるグラブ、シー、GoToという「3強」が注目を集めている。 本書は、東南アジアのスタートアップ事情をリポート。これら3社をはじめとする東南アジア諸国のスタートアップのビジネスモデルや設立の経緯、ベンチャーキャピタルや日本企業などの投資、大学や政府のバックアップなどを詳説し、なぜこの地域でスタートアップが育つのかを明らかにしている。 「3強」の一角をなすシンガポールを本拠とするシーは、ゲーム、ネット通販、金融を主要な事業とし、地域のニーズに応える巧みなサイト設計やマーケティング戦略で、サイトの訪問者数が東南アジア主要6カ国すべてで首位になり、中南米に進出するなどの成功を収めた。 著者の中野貴司氏は日本経済新聞シンガポール支局長兼クアラルンプール支局長で、日経BP日経ビジネス編集部などを経て2017年から現職。鈴木淳氏は日本経済新聞社Nikkei Asiaデスク(前ジャカルタ支局長)。
1年で25ものユニコーンが生まれる東南アジア
東南アジアのデジタル経済の市場拡大は、まだ本格的な成長が始まったばかりだ。グーグルなど(*の予測)によると、2020年に1170億ドル(約13兆4600億円)だった市場は、2025年には3倍の3630億ドル(約41兆7500億円)まで伸びる。 国別では、人口が約2億7000万人と東南アジア最大のインドネシア(1460億ドル)が全体の4割を占め、経済成長が著しいベトナム(570億ドル)やタイ(560億ドル)が追随する。インドネシアやベトナムはただ単に人口が多いだけでなく、ネット利用が日常生活の一部である若年層の割合が高く、デジタル経済市場の伸び率が高い主因となっている。 特筆すべきは、これらのデジタル経済の担い手の多くが設立から10年程度、あるいは10年にも満たない東南アジアのスタートアップであることだ。 2018年、東南アジアの配車サービス最大手のグラブが、米国の同業最大手のウーバーテクノロジーズの東南アジア事業を買収した。このM&Aは、東南アジアのスタートアップの躍進を象徴する出来事だった。 2021年には東南アジアで25の新たなユニコーン(企業価値が10億ドル〈約1150億円〉を超える未上場企業)が誕生。2013年から2020年までにユニコーンになった企業の総数(21)を1年で上回った。マイクロソフトアジアのアーメド・マザリ社長は2022年1月にシンガポールで開かれた日本経済新聞社のシンポジウムで「(日常生活のあらゆる需要を1つのアプリで満たす)スーパーアプリや、動画投稿アプリなどの技術革新はアジアから生まれている」と指摘した。 そんな東南アジアのスタートアップの中でも代表格と言えるのが、(*前述の)シンガポールの配車大手グラブ、ネット通販などを手がけるシー、配車大手のゴジェックと通販大手のトコペディアが統合したインドネシアのGoTo(ゴートゥー)の3グループだ。いずれも複数の主力事業を持ち、消費者の日常生活に欠かせない「プラットフォーマー」としての地位を確立している。 東南アジアのスタートアップは日本企業との関係も深い。例えば、グラブには孫正義会長兼社長が率いるソフトバンクグループ(SBG)が2014年から投資し、上場前の2021年4月時点で、出資比率は21.7%に達していた。トヨタ自動車が2018年に10億ドル(約1150億円)、三菱UFJ銀行が2020年に7億600万ドル(約870億円)を出資するなど、日本を代表する企業や金融機関が先を争うようにグラブに資金を投じている。 日本企業にとって、グラブのような東南アジアのスタートアップに投資する目的は、本業との相乗効果を狙う事業上の目的が大きいと言える。例えば、トヨタ自動車ならグラブの配車事業との連携、三菱UFJ銀行なら金融事業での連携といった具合だ。今後の成長が確実な東南アジアで足場を築く上で、東南アジア8カ国に進出し、膨大な消費者のデータを持つグラブとの連携は魅力的だ。 シリコンバレーを中心に昔も今もベンチャー企業の最大の集積地である米国は、人材や資金が豊富で、日本企業が食い込むのはすでに難しくなっている。米国と並ぶ二大強国である中国も、共産党の意向が産業界の規制に反映される傾向が強まり、日本企業がますます投資しにくい環境になっている。そんな中で、東南アジアは日本企業が現地のスタートアップと相互に利益を得るウィン・ウィンの関係が築ける数少ない地域になっている。
「3強」の一角、ゲーム、ネット通販、金融で成功を収めた「シー」
シーは、「東南アジアのアマゾン」とも「東南アジアの騰訊控股(テンセント)」とも呼ばれる急成長企業だ。源流は2009年に設立されたガレナ・インタラクティブ・ホールディングという持ち株会社だ。現会長兼グループ最高経営責任者(CEO)のフォレスト・リーらが創業し、本社をシンガポールに置く。創業から8年後の2017年4月に東南アジア(Southeast Asia)にちなんでSea(シー)に社名を変更。その半年後の同年10月にニューヨーク証券取引所に上場し、2021年10月には時価総額が一時、2000億ドル(約23兆円)にまで膨れ上がった。 ゲーム、ネット通販、金融の主要3事業のうち、ネット通販事業「ショッピー」をシーが立ち上げたのは、ゲーム事業が軌道に乗った後の2015年6月から7月にかけてだ。 マレーシアの情報収集サイト、アイプライスによると、参入から5年後の2020年7~9月期には月間の平均訪問者数が東南アジア主要6カ国すべてで首位になった。2019年以降に進出した中南米地域なども含めた注文受け付けの総件数は、前年同期比で90%増のペースで伸びており、事業開始から6年がたった時点でも高成長を維持している。 後発だったショッピーが成功した主な要因は、まず、スマホの利用者が使いやすいネット通販サイトをいち早く構築したことだ。東南アジアの地方では、携帯電話は持っていてもパソコンを持っていない人も多く、ネット通販が多くの消費者に浸透しない一因となっていた。 他の要因として、集中する分野を定めるカテゴリーマネジメントに長けていることがある。当初注力したのはファッションや美容・健康関連商品だった。これらの分野は単価が低く、流通総額(GMV)が稼げないことから、当時は多くの総合ネット通販業者が軽視しがちだった。一方で、単価が低い分、若年層の利用者が集まりやすい利点がある。特に流行に敏感で、SNSでの情報発信力もある女性を取り込んだことは、ショッピーの知名度を引き上げるのに大きく寄与した。
先端分野への起業支援プログラムを開設するシンガポール国立大学
シンガポールのユニコーンに、カルーセルとパットスナップという2つのスタートアップがある。カルーセルは個人同士が物品を売買するフリーマーケットアプリを提供する、「東南アジア版のメルカリ」だ。もう1つのパットスナップは世界の1億件以上の特許データや最新技術の動向をAI(人工知能)を使って分析し、企業に提供する。 手掛ける事業や顧客層がまったく異なる2社だが、共通点がある。いずれも創業者がシンガポール国立大学(NUS)の起業家育成プログラムを履修し、海外留学した点だ。 NUS海外カレッジ(NOC)と呼ばれるこのプログラムをNUSが始めたのは2002年にさかのぼる。NOCによって留学した学生の累計は3,800人を超え、卒業生が立ち上げたスタートアップも1,000近くに達した。シンガポールでは、NOC卒業生のスタートアップ業界での存在感の大きさとネットワークの緊密さから、「NOCマフィア」という言葉まで生まれている。 NOC制度で留学した学生は、スタンフォード大学など海外の一流大学のビジネスに関する講義を受けられる。しかし、NOCプログラムの最も重要な点は、一流大学での講義の受講ではない。現地のスタートアップでのインターンシップだ。起業家の下で修業することで、具体的なノウハウだけでなく、起業家としての心構えを養うことができる。 NUSには大学院生や研究員を対象とした起業支援プログラムもある。大学院生向け研究・革新プログラム(GRIP)と呼ばれるもので、始まったのは2018年だ。起業を志向する受講者をチーム分けし、チームごとに2人の専属スタッフをつけ、起業の実現を後押しする。有望と判断した起業プロジェクトには大学が最大10万シンガポールドル(約850万円)を出資するほか、外部のベンチャーキャピタルなどとの橋渡し役も担う。 GRIPが狙うのは、ディープテックと呼ばれる高度な技術やノウハウを持つスタートアップの育成だ。他社から容易にまねできない知識や研究成果を持った大学院生に、それらを商業化するノウハウを伝授し、シンガポール国外でも通用するスタートアップに育てる狙いだ。NUSでGRIPを含む起業関連プログラムを統括するフレディー・ボーイ副学長は、「年間100のディープテックのスタートアップを誕生させる」と意気込んでいる。 ※「*」がついた注および補足はダイジェスト作成者によるもの
コメント
従来、東南アジアでは国営企業や、同族経営の財閥が力を持ち、スタートアップがなかなか育たない土壌があったという。それが「3強」を追うように、2021年頃からスタートアップが勢いづき、マレーシア、タイ、ベトナムなどでもユニコーンが続々と誕生しているようだ。本書によると財閥にも変化が見られ、インドネシアの財閥、リッポー・グループ創業者モフタル・リアディの孫、ジョン・リアディ氏がデジタル経済へのチャレンジをするなど「開かれた財閥」になってきている。財閥や国営企業、ダイジェストに取り上げたNUCの起業支援、日本企業の投資などが複合的に関係することで、他の地域とは異なる東南アジア独特のビジネス風土が生まれているのだろう。
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